質問をする

2011年4月10日 お仕事
大学の講義でも仕事でも、特に教育機関については

「積極的に質問をしなさい」

と教師側は言う。これでも教員免許を取るために教職課程を履修し、実習にも行った身。教師側の気持ちもある程度は理解している。質問をさせることで、学習者側の熱意や理解度を測りたいという気持ちも理解できる。だが、しかし、だ。

質問の前提には対象に対する知識が必要なんだと思うんですよ。

何にも知識がなく、これは何ですか?→~~だよ。・・・するものだよというやり取りが教師側の希望するものであるならかまわないが、正直これで満足するなら普通に学習資料でも渡しとけば済む話である。

また、知識がなければ質問するための疑問も興味も生まれず、結局上のようなやり取りが起こるだけだ、というのが俺の考え。

つまり、「積極的に質問に行け。」というのは簡単だが、正直、これを教師側にたつ者が言い放つのは責任放棄と思考停止以外の何者でもないと思うんだよ。そして、教師側も質問を待ち受け、何でも教えてくれる体制を作るのは良いことなんだが、その質問を生み出す下地を作らないんだったら意味はないんだって言いたい。(もちろん、学習者側も自学自習していくことも大事。もっとも、自習もまた、学び方やその分野の前提知識があればこそ進むのだが。)


え、そんなのは甘えきった受動的なやつのせりふだって?

そんなことをいうやつがいるなら今まで自分が教師側にしてきた質問を思い出して欲しい。前提知識がない、あるいは乏しい分野で、教師側と、これは何ですか?→~~だよ。・・・するものだよというやり取り以上にQとAの応酬(内容的に深まっていくもの)をできた人はいるだろうか?


質問はとても難しいものなんです。

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